小川武史氏(第71・72期会長)コラム

2023年

献血

高校生の時に、初めて献血をしました。当時は200ccでした。今のヘモグロビン測定の代わりに、血の比重測定を献血前に行っていました。確か1.060と表示のある最も比重の大きい溶液に私の血を一滴垂らすと、迷いもなく沈みました。血が濃いと粘性が高く高血圧になりやすいと理解し、その後は献血に励んでいます。ボランティア精神ではなく、自分の健康ためです。400cc献血は1986年に導入されましたが、初めての400cc献血は1993年で、以来56回行ってきました。献血後に検査結果が届くと、EXCELに入力して管理しています。γ-GPTという項目で飲酒量が推定でき、ストレス状態の管理に役立っています。

体脂肪量

高校生の時に、がきデカの「練馬変態クラブ」が流行りました。体育の授業前後の着替えでは、大いに盛り上がっていました。当時は陸上部で体重は53kg程度だったと思います。身長は高校時代からほとんど伸びていませんが、2002年に43才となった私は69.8kgまで成長していました。この頃、行きつけのフィットネスセンターにインボディという測定器が導入され、体脂肪を測定すると19.5kgで28.0%でした。水泳と50才頃からは筋トレにも励んで、コロナ禍直前の2019年12月には、体重67.3kgで体脂肪量は16.3kgとなっていました。2020年の退職に伴い食事改善と毎朝の散歩を始め、2023年現在は62.3kgと12.2kgです。約20年で体脂肪量を7kg減らしました。脂身のホルモン7kgは結構な量です。

燃費

中学生の時に、父がパブリカ1000という中古車を買って乗り始めましたが、第1次オイルショックが勃発しました。近くのガソリンスタンドでは、185円/Lの表示を見た記憶がありますので、50年前を考慮しなくても相当の高騰です。父は毎回給油量を記録していました。1983年に初めてレビンを購入して以来、私も給油量を記録しています。残念ながらレビンの記録は紛失しましたが、総走行距離/総給油量は、シビックが55,904km/4,928L、ヴィッツが92,606km/5,658L、プリウスが69,606km/2,646Lです。5MTのヴィッツとHVのプリウスでは購入後7年間、燃費は微増傾向を続けました。乗り熟すのにこんなに時間がかかりました。やはりHVの燃費は抜群です。

行動記録

天安門事件が起きた1989年6月に渡米して、10ヶ月間の留学生活が始まりました。帰国後の報告書作成に備えて、毎日の行動記録を書き始めました。日記ではないので、心の動きの記載はなく、単純な行動記録です。帰国後も手帳に行動記録を書き続け、今日に至っています。高血圧が気になり始めた2005年からは、朝の体重、体脂肪率、血圧及び脈拍を記録しています。コロナ禍の始まった2020年からは体温も加わりました。手帳を紛失した半年分を除けば、人生後半の行動を振り返ることが可能です。色々な事がありました。

電子メール

ブラウン大学留学中の1990年に電子メールの存在を知りました。帰国後、岐阜大学の情報センターに登録して、留学中の友人とのメール交換を始めました。当時、日本語の使用は出来ず、日本人同士も英語のメール交換でした。この頃のメールは、フロッピーディスクを経由して、現在使用中のハードディスクに残っています。1997年に青山学院大学に移動してからは、Winbiffというソフトを使って、日本語メールのヘビーユーザーになりました。現在はThunderbirdになりましたが、宣伝以外のメールはすべてハードディスクに残っています。メールを見返すと、当時が蘇ります。

散歩

コロナ禍の運動不足解消のため、2020年から毎朝1時間余りの散歩を始めました。小雨決行です。短い足を素早く動かし、約1万歩/日です。2022年の元日にスマホの万歩計をリセットして、歩数測定を始めました。散歩以外にスマホを持って歩いた歩数も含まれますが、大晦日に確認すると4,172,684歩となっていました。歩幅を72cmとすると3,004kmです。2022年の自家用車の走行距離は、コロナ禍の影響もあり2,500km程度でしたので、歩行距離が上回っています。2023年も同様な計測を継続しています。この調子で歩けば、あと12年で地球1周の距離になりますが、私は77才の後期高齢者になっています。

移動手段(1):新幹線

幼稚園の時に、夢の超特急という絵本を見ました。0系のひかりでした。初めて乗ったのは1975年の修学旅行です。岐阜大学に勤めていた頃は、名古屋−東京間を頻繁に新幹線で移動しました。新幹線は大好きです。みどりの窓口で予約券を買っていた頃は、希望を言うと駅員さんが迷いなく電車と席を選んでくれましたが、今はスマートEXを使って自分で選ぶ時代になりました。選択肢が多過ぎで迷います。そこで考えたのは、小田原からひかりに乗るという選択方法です。2時間毎に小田原−名古屋ノンストップのひかりがあり、迷いはなくなりました。小田原駅では、のぞみが全力疾走で走り抜けます。こんなに早かったのかと気が付き、もっと新幹線が好きになりました。

移動手段(2):新幹線の車軸

私の故郷は高知県安芸市で、昔は阪神タイガースの一軍がキャンプに来ていました。村山、江夏、田淵の時代です。町には土佐電気鉄道安芸線があり、1974年に廃止されるまで国鉄後免(ごめん)駅と繋がっていました。26.8 kmに24駅もあり、1時間近くかかっていたように思います。龍谷大学の中村 宏先生から、新幹線車軸の疲労についてのご講演を拝聴した時、き裂が発生した新幹線車軸は、我が土佐電鉄安芸線で再利用されていたらしいことを知りました。新幹線の高速走行に疲れた車軸は、き裂を削り落として私の移動手段となっていたことに、郷愁の念を抱きました。真偽は定かでありませんが・・・なお、土佐電鉄安芸線では、阪神電鉄の中古車が使われていたそうです。

移動手段(3):自転車

いにしえの母校である安芸第1小学校では、1960年代に自転車の免許試験が行われていました。無免許運転をしていると、上級生から厳しい制裁がありました。自転車免許は必携アイテムです。小学3年生の時に、初めての免許試験に挑戦しましたが、8の字走行でコースアウトして不合格となりました。次の免許試験は半年後です。友達のほとんどは合格したので、地獄が始まりました。半年間、自転車を走って追いかけました。半年後の試験で合格した時は本当に嬉しく、無限の行動範囲を得た気分でした。大学時代にはサイクリング部に入り、全国を自転車で走り回りました。移動手段として自転車は最高です。無料で移動でき、浮いたお金でビールを美味しく頂けます。

移動手段(4):自動車

実は中学生の時に、初めて本物の自動車を動かしました。もちろん無免許なので私有地の広場で、父のパブリカ1000に挑戦しました。遊園地のゴーカート大好き少年だった私は、自信満々でアクセルを踏み込んだところ、オーバーレブ寸前まで吹き上がりました。遊具と本物は別物でした。クラッチ操作も極めて敏感で、エンストの嵐でした。我が家では、父の運転技術の評判が良くなかったのですが、見る目が変わりました。18歳で免許を取り、25歳でレビンを買い、30歳代には国際免許でアメリカやヨーロッパを走り回りました。ヨーロッパのレンタカーは、左ハンドルのマニュアル車です。最初は四苦八苦しましたが、運転感覚は最高です。

移動手段(5):路線バス

路線バスには極力乗らないようにしています。シートベルトをしないで自動車に乗るのは、ノーパン&ズボンで外出するように無防備です。運転手のシートベルト非装着が減点となったのは1987年からですが、私は1977年の運転免許取得時から、必ずシートベルトを装着していました。父の厳しい指導です。1991年にエアバッグ&ABS付きシビックに乗り始め、現在のヤリスには自動ブレーキも付いています。乗用車の安全装置がこれだけ進化したのに対して、路線バスは立ち乗りのままです。自動運転が劇的に進化して、路線バスが新幹線並みに安全になった暁には、私も安心して路線バスに乗れるようになるかもしれません。

移動手段(6):徒歩

京都で路線バスに乗りたくない私には、徒歩が有力な移動手段です。材料学会に行くときは、京都駅から地下鉄で今出川に行き、約20分間の徒歩です。汗の出ない冬場には、京都駅から鴨川の左岸を出町柳まで上がり、材料学会まで60分余りの徒歩という選択肢もあります。祭りなどを避ければ、徒歩は渋滞することがなく、確実に時間の読める移動手段です。しかも無料で、浮いたお金でビールを美味しく頂けます。春や秋には、哲学の道から南禅寺、嵐山周辺を散策するのも楽しみです。ありがたいことに、自動車や自転車と違って、ビールを頂いた後でも移動可能です。

町(1):安芸

年金の申請のために、戸籍証明書が必要になりました。住民票などは、マイナンバーカードをコンビニに持って行けば即日交付されるので、同じようなものかと思ったら大間違いで、私の戸籍のある高知県安芸市は受付もしてもらえません。定額小為替を買って、返信用の封筒とともに、郵送で申請を行ったところ、一週間後に戸籍が届きました。実はコンビニ交付も同じぐらい時間がかかるようです。安芸市は茄子の産地で、戸籍謄本の用紙には薄紫のコピー防止模様と茄子の絵が印刷されています。不幸なことに、私は茄子が嫌いです。幼稚園の給食で、全体に紫色の煮茄子がアルマイトの給食皿に載っているのを見て、ゾッとして以来の食べず嫌いです。

町(2):高知

中学高校時代は、高知市で三食風呂洗濯付きの寮生活と下宿生活を経験しました。高知と言えば、桂浜の坂本龍馬ですが、2023年は牧野富太郎の「らんまん」が話題になりました。高知市の東部に五台山という山があり、そこには牧野植物園があります。よく遠足の目的地になりました。開園は1958年で、私の同期です。ちなみに、東京タワー、マイケル ジャクソン、マドンナも同期です。「らんまん」では、広末涼子が完璧な土佐弁を披露してくれましたが、私も土佐弁ネイティブです。高校生の時、初めて羽田空港に着いて到着ロビーを出ると、標準語の世界となっていて、テレビの中に入ってしまったような動揺がありました。

町(3):東京

学生として1977年から6年半と、青学に就職した1997年から26年余りを東京で暮らしています。半生を暮らしていることになります。東京に住み始めて驚いたことは、大気汚染です。1977年当時は、自動車の排ガス公害が顕著で、環状7号線沿いのアパートで暮らしていた頃は、鼻をかむと真っ黒でした。都内から富士山が見えることも希でした。1997年に戻ってきた東京の空気は少し改善されていましたが、即刻花粉症になりました。石原慎太郎元都知事が、強引なディーゼル排ガス規制を打ち出すと効果は抜群で、自宅から富士山が見える日もかなり増えました。今後も東京に住み続けるつもりです。

町(4):岐阜

岐阜で暮らしているときに、煙草を止めて太り始めました。少しでも食い止めようと、サイクリングを復活させました。アルミフレームのロードバイクを買って、岐阜大学の周りの堤防道路を毎日20km走り、休日にはサイクリング部時代から乗っているランドナーで、周りの山道を走り回りました。薄墨桜で有名な根尾コースやさざれ石公園の近くを通る関ヶ原コースがお気に入りでした。岐阜は自然が豊かで本当に住みやすいところでした。ただし、岐阜弁には馴染めませんでした。自転車のことを「ケッタ」と呼ぶのです。一部の人だけではなく、みんながロードもランドナーも「ケッタ」と呼ぶのです。「チャリンコ」は通じません。岐阜に行ったときには、注意が必要です。

町(5):プロビデンス

10ヶ月の留学生活は、アメリカ合衆国ロードアイランド州プロビデンスで過ごしました。面積が最小の州で知名度もありませんが、日本に向けて黒船が出発した場所です。Black Ship Festivalという催し物があり、当時はジョン万次郎の出身地である高知県土佐清水市が共催し、毎年土佐清水の人が参加していました。留学先で土佐弁が聞けるとは思いもよらぬことでした。現在はプロビデンスに行く用事はなくなりましたが、Google Mapを使って行ってみると、住んでいたアパートはそのままで、懐かしい散歩道も変わりありません。ジョン万次郎の時代とは随分変わったものです。

町(6):京都

京都に住んだことはありませんが、材料学会活動で随分通いました。その度に、京都中を歩き回りました。京都には不思議な施設があります。南禅寺の水路閣、インクライン、発電所などです。これらは、京都疎水の関連施設で極めて興味深いものです。琵琶湖の水をトンネルで山科に運び、新幹線からも見える山の麓に用水路を通して京都に水を運んでいます。京都には鴨川があり、水源に困ることはないと思いますが、水運と水力が目的だったようです。青学出身の柴田よしき「炎都」では、突然京都に水がなくなり、大変なことになります。ヒコクーというギャオスのような妖怪が出てきて恐怖ですが、逞しい京都の女子が成敗します。

自家用車(1):狼の皮をかぶった羊

大学の先輩が乗っていた日産チェリーの乗り味が好きで、自分で買うのは前輪駆動(FF)車と決めていましたが、後輪駆動(FR)派の父が大反対でした。就職したばかりの1983年の自家用車購入には、父の援助が欠かせずFRを探したところ、カローラ レビンAE86が売り出されたところでした。もちろん、DOHC16バルブ130馬力は高嶺の花です。カタログをよく見ると、OHC8バルブ83馬力のAE85がお手頃価格で、新技術の4速ロックアップ付ATです。幅広扁平タイヤを友人から手に入れ、狼の外観は出来上がりましたが、中身は羊のカローラです。しかもパワステなしで据え切り不能車でした。最終的にはベアリングがタイヤに負けてガラガラ鳴り始めました。車は純正で乗るに限ります。

自家用車(2):点検に注意

アメリカでの留学生活には自家用車が必須で、ポンティアック レマンズ(1988年モデル、韓国製)の中古車を1989年6月に購入しました。最初は順調に走っていましたが、エアコンが壊れていたので、購入したディーラで点検と併せて修理してもらいました。これで安心と思って高速道路を走っていると、オーバーヒートしてエンジンから蒸気が上がりました。開けてみると、ラジエータにエアコンホースが接触して、穴が空いていました。何とか高速を降りてAAA(アメリカ版JAF)に電話をしましたが、Where are you?と聞かれてWell, I don’t knowと答えてしまったことが忘れられません。点検後に初期故障が懸念されるのは常識ですが、当時はその知識がありませんでした。点検には注意が必要です。

自家用車(3):使えなかった装置

1991年のシビック フェリオVTi価格交渉終盤に、免許取立ての妻が「尻尾が欲しい」と言い出しました。リアスポイラーです。効果が出るほど速く走りませんし、洗車も面倒です。格好いいので付けましたが、有効な装置とは思えませんでした。一方、VTECと呼ばれるエンジンバルブの開閉を変化させる装置は期待していました。ところが、切り替わるのは4800rpmと高く、私が9年半運転していたときに切り替わったのは1回だけです。それも、急な登り坂で1秒間ぐらいでした。フェリオには、エアバッグとアンチ ロック ブレーキ(ABS)も付けました。ABSは雪道で急ブレーキを踏んでみて作動確認しましたが、幸いにも、どちらのお世話にもならずに済みました。

自家用車(4):マニュアル操作

東京に転居して妻が車を卒業したので、2001年からヴィッツRSマニュアル5MTに乗り始めました。ダブルクラッチでエンジン側とタイヤ側の回転を合わせてシフトダウンすると、シフトレバーが吸い込まれるように変速でき、自己満足が得られます。当時、地球環境に配慮して、停車時にエンジンを停止させる装置が人気となり、私はマニュアル操作でアイドルストップを実現させました。赤信号で止まると、ハンドブレーキON、ライト、ワイパー&エンジンOFFです。青信号になると、クラッチOFF、セルを3回転、1速にシフト、ライト&ワイパーON、ハンドブレーキOFF&半クラッチで素早く発進します。アイドルストップの効果は僅かです。やはり、マニュアル操作は自己満足のためでした。

自家用車(5):使わなかった装置

マニュアル操作に飽きた私は、2012年に全自動のプリウスに乗り始めました。加速時以外はエンジンOFFです。減速には、発電してバッテリーに充電する回生ブレーキが使われています。冬場に暖房を使おうとすると、エンジンの冷却水を暖めるためにエンジンONとなります。燃料を無駄にしないために、バッテリーに充電します。やがてバッテリーは満タンになって回生ブレーキは使えなくなり、ディスク ブレーキから摩擦熱を放出して燃費が悪化します。仕方なく、暖房は諦めて、膝掛けをして運転することにしました。夏場のエアコンは電動式ですが、やはり燃費が悪化しますので、冷房も諦めて早朝と夜の走行を心がけました。プリウスのエアコンは、殆ど使わなかった装置です。

自家用車(6):怖い顔

2022年に購入したヤリスを見た91歳の母は、「えらい怒っちゅうねえ」という感想でした。車の顔が怖いのです。最近の車にはLEDライトが採用されるようになり、顔つきは大きく変わりつつあります。どうも怒った顔が多いようです。電気自動車はラジエータがないので、マスクを付けたようにも見えます。テスラCEOの影響かもしれません。ヤリスと同じような寸法ですが、2001年に購入したヴィッツは、可愛い系の顔でした。シビックに比べて無理な割り込みをされるなど、「なめられている」と感じましたが、ヤリスにはそのような傾向がありません。怖い顔は安全装置の一種と考えられます。人間の顔も同じかもしれません。

歌(1):よさこい

会誌「材料」に、私の歌唱中の写真が掲載されたことがあります。アカペラで歌ったのはよさこい節です。「土佐の高知のはりまや橋で・・」が有名ですが、私は最後が好きです。「言うたちいかんちや、おらんくの池にゃ塩吹く魚が泳ぎより」という歌詞で、翻訳すると「何を言ってもダメ、俺んちの池(土佐湾)には鯨が泳いでいる」という自慢話です。大政奉還の山内容堂は、鯨海酔候と呼ばれる大酒飲みだったようですが、柳ジョージ&レイニーウッド「酔って候」で格好良く紹介されました。「よさこい」は鳴子を使って踊りとなり、全国展開しています。東京では、8月末に原宿でスーパーよさこい「元氣祭」です。翻訳すると「夜おいで」なんですが・・・ https://doi.org/10.2472/jsms.60.574 https://www.youtube.com/watch?v=UfhJvroI3E8

歌(2):飲酒

鯨海酔候(山内容堂)が持て囃されるように、高知は飲酒に寛容な風土がありました。父の遺伝で、私もアルコール分解酵素が豊富です。1968年にリリースされたザ・フォーク・クルセイダーズ「帰ってきたヨッパライ」では、飲酒運転に端を発するパロディが語られましたが、今では御法度です。危険運転致死傷罪の切っ掛けとなった事故が1999年11月に起きました。加害車トラック荷台のパネルには、高知の文字がありました。私は飲酒運転をしませんが、2012年に呼気アルコール濃度が気になり、アルコールチェッカーを購入しました。その結果、チョット頭が重い程度でも、酒気帯び運転だとわかりました。完全に呼気アルコールが無くなるまで12時間かかります。 https://www.youtube.com/watch?v=sFLErNE0FZk

歌(3):発音

留学先のSuresh教授は、数字の18を私に伝えようとする時に、eighteenと言った後、必ずone eightと付け加えていました。日本人がteenとtyを判別することが苦手だと云うことを熟知しているからです。私のヒアリングの問題かもしれませんが、ライブ版の中村あゆみ「翼の折れたエンジェル」では、エ!?と思う歌詞が聞こえてきます。「Thirtyふたりは出会い」は全く問題ありませんが、「Sixty初めてのkiss」「少しずつため息おぼえたeighty」と聞こえてくると目眩がしそうです。数字の発音には注意が必要です。 https://www.youtube.com/watch?v=XmYKA_NRvEc

歌(4):麦わら帽子

麦わら帽子と聞いて、どんな歌を思い出しますか?私は松崎しげる「黄色い麦わら帽子」です。1972年のリリースですので中学生でした。チョコレートのコマーシャルソングでしたが、情景が思い浮かびます。次は吉田拓郎「夏休み」です。「麦わら帽子はもう消えた」の歌い出しで1982年のリリースですが、小学生の頃の夏休みを思い出します。特に、2番の「姉さん先生・・」が好きです。若い人は、圧倒的にあいみょん「マリーゴールド」だと思います。「麦わらの帽子の君が・・・」のメロディは、私の心にも響きます。ところが、歌詞を読んでもサッパリ情景が湧きません。カラオケでも歌えそうにありません。この辺が高齢者の証しです。 https://www.youtube.com/watch?v=hO1rg9ImqTc https://www.youtube.com/watch?v=wywW3CcTaDY https://www.youtube.com/watch?v=0xSiBpUdW4E

歌(5):時

テレビアニメのスラムダンクでエンディングテーマを務めたマニッシュに「この一瞬という永遠の中で」という曲があります。曲名のフレーズを聴くたびに不思議な納得感を感じます。一瞬は年齢にかかわらず同じ線形時間軸で永遠に続いています。永ちゃんが「時間よ止まれ」と命令しても無駄です。一方、中島みゆき「時代」になると、対数時間軸で記憶されているように感じます。小学校の夏休みは、大学の夏休みよりも長かったと云うことです。これは、過去の期間を年齢で正規化して記憶に刻んでいるからではないかと考えました。例えば、小学1年生にとってのコロナ禍3年間は、私にとって30年間に相当することになります。これは大変なことです。 https://www.youtube.com/watch?v=imOQh7zoG_g https://www.youtube.com/watch?v=doKpTFtq_4A https://www.youtube.com/watch?v=aOOpDfmy7mw

歌(6):卒業

コロナ禍でカラオケを卒業してしまったように感じています。富岳の飛沫解析を見ると、やはり断密です。私はカラオケが大好きでした。昔は材料学会の会議が終わると、四条河原町で飲み&カラオケ、三条京阪から渋谷行き夜行バスを繰り返しました。良く考えると、色々なことを卒業してきました。最初はバイクで25才頃だったと思います。40才頃にバトミントンと海外ドライブを卒業しました。最近、ドロップハンドルの自転車を卒業しました。大学院時代から乗り続けてきたランドナーを知人に譲り、今はヘルメットを被って黄色いママチャリでフィットネスに通うだけです。ただし、バイクやランドナーよりもカラオケは安全です。飛沫解析が気にならなくなったら、再開できるかもしれません。